表現のベクトル

仙台の冬の名物詞「光のページェント」に合わせて、先月行われた定禅寺ストリートジャズフェスティバル2007の写真展が行われるとのこと。
その写真を募集しているようなので、送ろうかと思ったのだが・・・

熱気あふれるミュージシャンの演奏、楽しいパフォーマンスが伝わってくる、そんな作品をお待ちしています

自分の写真をマジマジと見ると、なんか違うな、と。

自分の写真は明らかにベクトルが「一般大衆」に向いていない。
どうみても撮られた人にみられたい写真でしかない、かなと。
客観的に見ると、何も面白くない写真。
そんな気がする。

「評価はアーティスト自身がするものではない」
と言うのも自分の持論ではあるのだが、それは
「人にとやかく言われても気にするな。信じる道を迷わずいけよ。」
と言う意味。
アーティストには客観的にものごとをみるのは大事。
その上で「信じる道」をつくっていけと。

仕事の文書にしても、音楽にしても言えること。
「誰がみる(聴く)のか」
を考えていないものは、

あえて言おう、カスである、と。

そんなわけで、ちょっと応募は保留しとこう。

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この記事へのコメント

難しいよね
2007年10月20日 10:35
古くからの矛盾ですよね。
「明日のごはんの事を考えながらでは、純粋な芸術は生まれない」なんて極論もあるけど、本当に考えないで済む人たちは、古代ギリシア──まで遡らなくても、モーツァルトの時代だって、パトロンがいたわけで。
後世まで残っているのは、たまたまの結果であって、彼の時代にしても、特定の誰か(スポンサー)のための表現が成立していたわけだし、ましてやそういう誰かに巡り会えず、自己の表現に殉じていった先人を貶めるものでもないと思います。
もちろん、書いた本人も「駄文だけど個人の日記だからいいや」みたいに思ってるような表現──いや、「表現」ですらないかも──とは別のレベルの話で。

さいこどんの写真、自分とは全然別の誰かが被写体になっているものも、演奏者が放つ輝きを写し出す、「月の光」みたくなっていると思いますよ♪
TAKA
2007年10月20日 10:36
あ...↑ニックネームのところにタイトル入れてるし(汗)
さいころ
2007年10月21日 13:01
うっかりハンドル書かないのはmixiの弊害ですよねw

いやはや、ありがとうございます。
書いておいてなんですが、アーティストは目的なんかなんでもいいんですよね。
それこそポップアートの巨匠、アンディ・ウォホールだってコマーシャリズムだったわけで、それが後にアートとして認められるわけです。
生きているうちに認められなかった人は非常に残念ですがね。
写真展への応募はしてみようと思っています。
明らかに趣旨違いの写真に見えるならば、実行委員会で落とすでしょうしw
saori
2007年10月25日 13:20
でもさ、さいこどんの写真は本当に宣材になりうるよ。それこそアーティストの意向を良く分かって撮ってくれてる感じよね。
さいころ
2007年10月27日 06:17
>saoriちゃん
ありがとー。
ポーズ取らせていないから、って言うのもあるからかもね。

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